| キ ク マ ナ
うつろな私の目に飛び込んできたのは、光の雨だった。
今まで私は眠っていたのか、それともただ「ぼうっ」としていただけなのか。
あの曖昧な感じは、私から常に時間を奪い去る。
今までの記憶が曖昧にぼやけ、その替わりに目の前の光景が鮮明さを増してゆく。
ふいに途切れた光の雨と共に、私は顔を上げた。
私のいる部屋。
部屋の壁のうち、三面が本棚に、残り一面が読書机になっている縦長の部屋。
窓が一つあるだけの、出口の無い部屋。
私の目に映るものは、床に散らばった沢山の本。
真上を見ると電灯光が私の目を刺激し、横の本棚を見ると本が私の目を刺激する。
本。本。本。
どれが読み終わった本で、どれが読んでいない本なのかの区別さえつかなくなってきた。
読書を再開しないと。
そんな焦りが、私をその場から立ち上がらせる。
これからの作業を思い、私は大きくため息をついた。
「はあ」
本棚用の灯りが消え、代わりに机の上の電灯が点灯する。
私を誘っているかのようなその光。
私はいつものように机の前まで移動すると、机上をしばらく見つめた。
乱雑に散らばった本に埋もれた机。
私は乱暴に椅子に座り込むと、目の前の本を開いた。
白紙。
私はきっと今、死んだ魚のような目をしているに違いない・・・。
そんな考えがふと浮かぶ。
次の瞬間、白紙のページからキューブという名の立方体が浮かび上がった。
(キューブは私の目の高さまで浮いてくると、その場でふわふわと漂い始めた)
そろそろ弾けるわ。
私はそう思い、ゆっくりと目を閉じる。
まぶたの向こうで何かが弾けた感じがしたのは、その直後のことだった。
・
私の意識が、暗闇としか言いようの無い空間の奥深くに沈んでいく。
光の粒のカケラの余韻、辺りに漂う粘りつくような空気。
暗闇の底に鏡がある。
私の部屋に置いてあるような、全身が映る鏡。
その鏡の中に人影が見える。
影?・・・いいえ、その人影は真っ白な人型のシルエット。
私を見据えた白い人影は、そのままゆっくりと左の方向を指差した。
その瞬間。
鏡は音を立ててその表面に亀裂を生み、同時に鏡の住人の右腕が跡形も無く吹き飛んだ。
ああ、少しだけかわいそう。
でも鏡の向こうの人のことだから、本当はあまり悲しくないんだわ。
その人影は何かを私に伝えようとしていたみたいだけど、今は考えないでおこう。
真っ暗な空間に無数の階段がひしめいている。
何処までも続くその階段は、遠くから見ると、まるで真っ暗な空間に描かれた斜線に見える。
私はその階段の一つを上っていた、はず。
登っていたはずなのに・・・どうして私の階段は途中で途切れているの!
もどかしさと共に、私は階段の終点に腰を下ろしていた。
周りにある他の階段は、まだ終点が見えていないのに。
どうして私の階段だけ。
どうして私の階段だけ。
私の後ろからは大勢の「他人」が階段を上ってきている。
ああ、もう来ないで。
階段はここで終わりなの。
これ以上先は無いのよ、引き返して・・・私に近づかないで!
・・・どうして誰も何も言わないの?
・・・どうして誰も止まってくれないの?
何処までも続く平野。
私は一人でそこに佇んでいる。
白黒タイルのその平野の上に立っていると、まるで自分がチェスの駒になったよう。
「ぼうっ」っと思考が停止し、うつろに足元を眺めているだけで許される自分がそこにいる。
気配。
ふと顔を上げ、辺りを見回す。
人間とも影とも付かないぼんやりとしたモノが、私の傍らを走り抜けていった。
アレは何?
一人で何処へ走っていこうとしているの?
何であんなに走る必要があるのかしら。
ああやって好きなだけ自己主張していればいいんだわ。
私はそう思い、立ち止まっている自分を精一杯正当化した。
でもその影は、孤高の存在ではなかった。
同じような人影が、また一人、同じように走り抜けていく。
その次にもまた一人。
さらにまた一人。
やがて何十もの無数の影が、私の横を次々と走り抜けていく。
私の横を?
いいえ、走っている彼らの中に、私が立っているの?
私のほうが変なの?
いつしか私は、立ち止まっていることに不安を感じ始めた。
同じ方向に向かって走り続ける影の群れ。
私も同じようにしなければならないのかしら。
階段の終点。
私は後ろからやって来た「他人」にそこから突き落とされた。
彼らは無言のまま、落下する私を眺めていたように思う。
落下する私。
頭を下にし、くるくると回りながら落下する私。
あまりのめまぐるしさに私の意識は遠のく。
今までの出来事が走馬灯のように、いえ、額にかけられた絵になって私の周りをくるくると回る。
何十もの額が、落下している私の周りをくるくるくるくる。
そんな意識の中、私の脳裏にはかつての記憶が一瞬蘇った。
私がまだ小さな子供だった頃。
あの出口の無い部屋に来たばかりの頃。
本棚は綺麗に整理され、部屋は真新しかった。
その時私はお気に入りの絵本を握っていたっけ。
誰から言われるでもなく、自分自身で選んだ本当に好きな本。
素直に自分の好きなものを言うなんて、今の私には出来るかしら?
きっと言えないわ、何故だか分からないけど。
落下する私。
沢山の影が走る。
その中に佇んでいる私。
走るべきか、走らざるべきか。
影の数はまだ増え続けている。
落下する私。
記憶の額が、落下している私の周りから消える。
辺りは深海のような、真っ暗な空間。
そこに強烈な光が差す。
巨大な目の光。
巨大な魚の光。
私は巨大な魚のそばに落ちてきたのだ。
ああ、なんて大きな魚。
その魚の名を、海魚と言う。
わたしはその巨大な海魚に抱かれて、どこまでも、どこまでも沈んでゆく。
・
本を勢いよく閉じると、私はそのまま机の上に頭を投げ出した。
充実感のカケラも無い疲労感と、虚無感が私を包み込む。
本を読んだ後はいつもこうだった。
不安。
追い立てられる。
拘束される。
この部屋にある全ての本は、何一つ私に安息を与えない。
机上の本の数はいつの間にか増えている。
読んでも読んでも無くならない本。
本棚に収まっている本の数だって、知らぬ間に増えてきる気がしてならない。
そんな事を考えながら、私はその姿勢のまましばらく体を休めた。
時計の秒針の乾いた音が聞こえる。
この部屋に時計なんてあったかしら。
早く本を読まないと、時間はどんどん過ぎていくよ。
そんなことを言っているかのよう。
ふと、部屋の壁に飾られている絵が目に入った。
これは確か、以前部屋に飾った絵だ。
いち、に、さん、よん枚の絵。
その絵は私の部屋に飾ってあるから、つまり私自身の記憶、私自身の歴史。
私はだるい体をゆすって椅子から立ち上がり、絵の前に立った。
いち。
一番上にある絵。
沢山の小さな四角い家が、その背後にある巨大な球とパイプで繋がっている。
昔、世界はこういうふうになっている、という本を読んだことがある。
この絵はそれを描いたもの。
でも本当にこうなっているのか、自分の目で確かめた事は無い。
だって不可能じゃない。
に。
その右下にある絵。
長い階段を上り続けている私の様子を真横から描いた絵。
私の後からは、数人の「他人」が階段を上って来ている。
ああ、あの時の記憶だ。
さん。
その下にある絵。
さっきの階段の絵とほとんど同じ。
でも上下をさかさまにして飾ってある。
引いた目で見ると、別の絵に見えなくも無い。
よん。
その左にある最後の絵。
奇妙な人間・・・ロボットのようなものが描かれている。
丸い頭、小さな二つの目、口から伸びるパイプと全身を覆うマント。
これは何だろう。
以前会った事のある人かしら?
それとも、単にこの人の事を本で読んだだけなのかしら?
今となってはその区別さえつかない。
私は絵がかかっている壁に背を向けた。
これらの記憶は確かに私のものだけど、でもやっぱり何か違う。
本当に得たもの、本当に私が望んで描いた記憶ではない。
宿題で無理やり書かされた日記のようなものだわ。
そんな事を考えて、私は再びため息をついた。
・・・絵がかかっている壁の反対側には、全身が映る鏡が立てかけてある。
私の半開きの視界の中に、その鏡がある。
白い手。
一瞬、鏡の中に白い手が現れ、そして消えた。
「え?」
私は鏡を凝視した。
すると再び白い手が出現し、手招きのような奇妙な動きを始めた。
まるでダンスみたい。
その動作は何度か繰り返され、やがて徐々に一つの形となり、最後はあるポーズに固定された。
その形・・・人差し指で右方向をしっかりと指差す形。
私に右を見ろと言っているようなジェスチャー。
夢の中に出てきた白い人影、吹き飛ばされた右腕。
無意識のうちに私は鏡の右側、つまり机の左隅の角を見やった。
電灯の光が私の目を刺激する。
そこにあるのは、机の上に散らばった本の山。
それがどうだというのだろう。
分からないわ。
私は助言を請うように、再び鏡に向き直った。
しかしもう白い腕は消えており、鏡にはいつもの反射風景しか映り込んでいない。
困ったわ。
何が言いたかったのかしら。
もう一度部屋の角を向くと、今度はもう少し丹念にその辺りを見回した。
何の事は無い、いつもの私の部屋そのもの。
私は仕方なく視線を元の位置に戻した。
でも。
何か気にかかる。
あの壁際、あの角。
私はその場に立ったまま、ゆっくりと記憶の糸を手繰り寄せていた。
壁。
かけられた絵。
昔。
子供の頃。
・・・。
「あ!」
そうだ。
手繰り寄せた糸の先にあった、幼い頃の記憶。
私はその角まで歩み寄ると、机の上の電灯を角側に向けた。
確かにそれはそこにあった。
私と両親の絵。
その隅の壁にはもう一つの絵、私と両親が描かれた絵がかけられていたのだ。
今までずっと忘れていた。
日々を読書に忙殺され、本の山に文字通り埋もれていた私自身の記憶。
そうだ。
これは私自身の記憶だ。
私自身の記憶だ。
そうだ。そうだ。そうだ。
私の、私自身の・・・。
瞬間、砂嵐のようなショックが私の頭を駆け巡った。
静かで暗いはずの部屋に轟音が鳴り響き、まばゆい光が幾重にも差し込んだ気がした。
・
気がつくと私は机上の電灯を消し、部屋の天井にある電灯を付けていた。
椅子に座ってその部屋を見回してみる。
部屋の全貌が見えると、今までいかに無意味な本を見ていたのかがよく分かる。
そして私は同時に、自分の意識が内側へと向かうのを感じ始めていた。
私の目に映る本棚。
私の目に映る、床に散らばった本。
私の目に映る、沢山の本。
そして私の目に映る、私自身の手。
・・・わたし?
その部屋に、私はいる。
そして、自分の目で自分自身を見ることすら出来る。
どうして今まで、こんな当たり前の事に気がつかなかったのだろう。
私は思わず自分自身を指差した。
夢の中で何かを指差そうとした白い影。
鏡の中で両親の絵を指差した白い手。
そして今、私は私自身を指差している。
・・・私はようやく自分自身にたどり着けたのだ。
嬉しさがこみ上げてくる。
そうだ。そうだ。そうだ!
わ・た・し。
私は、口が裂けんばかりに笑みを浮かべた。
「くふふ」
私 は す ぐ 目 の 前 に 誰 か の 気 配 を 感 じ て 顔 を 上 げ た 。
目の前に、奇妙な形をしたロボットが立っていた。
無機質っぽくて
皮膚感覚が感じられなくて
冷たい空気が漂い出すような
そんな雰囲気のロボットが。
私をじっと見つめている。
その瞬間、私は全てを理解した。
ああ、このつかの間の喜びは、いったい何度目のものだろう。
でも考えるのは無意味だわ。
どうせすぐに忘れてしまうのだから。
「お休みの時間です」
ロボットはそう言うと、口から伸びたパイプを私の頭まで伸ばした。
そして私の目の前で光を放った。
・
うつろな私の目に飛び込んできたのは、光の雨だった。
今まで私は眠っていたのか、それともただ「ぼうっ」としていただけなのか。
あの曖昧な感じは、常に私から時間を奪い去る。
今までの記憶が曖昧にぼやけ、そのかわりに目の前の光景が鮮明さを増してゆく。
私の周りに降り注ぐ光の粒は・・・まだ振り続けている。
私のいる部屋。
部屋の壁のうち、三面が本棚に、残り一面が読書机になっている縦長の部屋。
窓が一つあるだけの、出口の無い部屋。
私の目に映るもの、床に散らばった沢山の本。
横の本棚を見ると本が私の目を刺激し、真上を見ると電灯光が私の目を刺激する。
電灯が撒き散らしている光の粒。
電球の中にはキューブが見える。
本。本。本。
どれが読んだ本でで、どれが読んでいない本なのかの区別さえつかない。
私はいずれ、読書を再開しなければならなくなる。
そんな焦りが、私の意識を眠りへと向かわせた。
今はとにかく眠ろう。
休めるうちに休んでおかないと、後が辛いのよね。
私はゆっくりと顔を膝にうずめた。
そして眠りにつくまでの少しの間、この世界について考えてみた。
この世界は、こんな部屋の集まりで出来ている。
沢山の部屋。
出口の無い部屋。
みんなそこで、何処から送られ来るか分からない本を貪り続けているんだわ。
意味も考えず、訳も分からずに。
でも安心して。
それは誰だって同じなの。
みんなそうやってこの世界で生きているの。
だから、そこから抜け出そうなんて思わないで。
だってそうでしょ?
不安になるでしょ?
私達はこの生き方を続ける限り、何も背負わずに済むのだから。
そしてふと
この世界もあの夢のようなものなんじゃないかしら
と、考えてみる。
了 |